三日目 ― 五色ヶ原から剣山荘へ
五色ヶ原で迎えた朝は、昨日までとは違っていた。
お風呂で汗を流し、布団に横たわる前に自分の足を揉みほぐしたおかげか、体が軽い。
六畳間を二人で使えたこともあり、のびのびと眠れた。
「今日は歩けそうだ」
そんな感覚を久しぶりに持ちながら、五時の朝食を終え、五時半に山荘をあとにした。
最初の獅子岳の登りはきつかった。
だが、足は思いのほかよく動く。
昨日の疲れを思えば、このペースで歩けていること自体が不思議だった。
鬼岳の雪渓を横目に、龍王岳の斜面を越え、時計を見るとまだ九時前だった。
一ノ越山荘に着いたのだ。
ここは、かつて娘と訪れたときにコーヒーを飲んだ思い出の場所。
同じことをしようと売店に向かったが、残念ながら準備中だった。



気持ちを切り替え、雄山へ向かう。
山頂の神社で七百円を納め、参拝する。
薬師岳で祈った安全、ここまでの道中の無事。
そしてこれから先の目標と夢。
神に向かって語りかけながら、胸の奥で静かに誓った。
長い縦走の中で、ひとつの節目を迎えた気がした。



次は大汝山。
ここでは早めの昼食をとることにした。
まだ十時半だったが、山小屋の食堂はすでに温かいうどんを出していた。
迷わず注文する。
熱々の出汁をすすりながら、体が内側からほどけていく。
続けて頼んだコーヒーは五百円。
窓越しの景色を眺めながら飲む一杯は、まるで優雅な贅沢だった。
再び歩き出す。
富士ノ折立、真砂岳を越えていく。
振り返れば、雲の切れ間から剱岳の上部がちらちらと姿を見せた。
そのたびに胸の奥でざわめきが広がる。
「いよいよだ」
そう思わずにはいられなかった。
別山に立つと、その気配は一気に現実になった。
目の前に剱岳が現れたのだ。
圧倒的な迫力。
ここは剱岳の別山、すなわち御神体を直接拝めない人のための代拝の地。
なるほど、と頷く。
剱岳の山容は、たしかに祈りを捧げるに値する姿をしていた。
僕も深く頭を垂れ、胸の内で言葉を結んだ。



午後二時四十五分、剣山荘に到着。
広場には人があふれ、生ビールのジョッキを掲げる声が響いていた。
土曜の剣山荘は華やかすぎて、流れに飲まれそうになる。
僕は静かに受付を済ませ、ザックを整理した。
コーラを一本買い、ベンチに腰を下ろす。
炭酸の泡が弾けるたび、疲れが体の外に抜けていくようだった。
明日は剱岳アタック。
土日の混雑で「カニのタテバイ、ヨコバイは何時間も待つ」と聞いた。
だが、不思議と焦りはなかった。
「まあ、いいだろう」
長い縦走の最後を飾る一日なのだ。
足を揉みほぐしながら、静かに眠りにつく準備をした。
四日目 ― 剱岳アタック、そして室堂へ
前夜の夕食は、ソロの四人で同じテーブルを囲んだ。
剱岳初挑戦の人。
100マイルのトレランに出る超人。
すでに剱を登り終えて後泊する人。
そして僕。
山の話題は尽きず、笑い声が飛び交った。
その中で、初挑戦の人がつぶやいた言葉が耳に残った。
「皆さんより登山経験が少ないから、剱岳登山は不安です」
率直なその一言は、なぜか僕の胸に深く刻まれた。
翌朝三時過ぎ、薄暗い小屋で荷物をまとめていると、彼も準備をしていた。
出発時間が近い。
僕の行程は今日で終わり。室堂に着ければそれでいい。
「一緒に行きますか?」
声をかけると、彼の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか」と答える声には、安堵と喜びが混ざっていた。
こうして、剱岳アタックは思いがけずバディと共に始まった。
四時、ヘッドランプの明かりを点けて出発。
夜空には満点の星。
剱岳の稜線には、すでに早立ちの登山者たちの光が連なっていた。
闇を抜ける頃、空はマジックアワーに染まる。
藍から橙へ、刻一刻と移ろう空の色に、息を呑む。
「すごいな」
その感動を言葉にすれば、バディは笑顔でうなずいた。
ソロでは味わえない、分かち合う喜びがそこにあった。



鎖場に差しかかる。
一歩一歩を慎重に。
バディと声を掛け合いながら進む。
やがて、剱岳山頂に立った。
握手、そしてハイタッチ。
360度の大展望。
薬師岳まではっきりと見えた。
「あそこから歩いてきたんだ」
その思いが胸を突き上げ、涙が溢れた。
自分のために涙が流れるなんて、この歳になってもあるのだと驚いた。
「当然ですよ」
バディの言葉が、優しく包み込んでくれた。



山頂を堪能し、長い下山路へ。
鎖を握り、岩を下り、ようやく剣山荘へ戻った。
山荘の食堂でコーラを飲んだ。外は暑く、冷えた炭酸が体にしみわたった。
挑戦を共にした感謝が胸いっぱいに広がり、コーラはいつもよりも甘く感じられた。
そのまま室堂へ向かう。
長い道のりも、話をしながら歩けば短く感じる。
立山の景色に守られながら、二人で最後の稜線を踏みしめた。
剱岳をやり切ったバディは、もう友人だった。
分かち合った時間が、そのまま絆に変わっていた。
別れはあっさりとしていた。
彼は扇沢へ、僕は立山駅へ。
また山で会おうと約束を交わし、歩き出した。
終章
この四日間を振り返る。
薬師岳の祠で祈った登山の安全。
立山(雄山)で捧げた感謝と誓い。
剱岳で流れた感動の涙。
計画の初めに思っていた。
「この縦走を終えたら、自分は何か変わっているだろうか」
いつもは結局、何も変わらなかったと感じてきた。
だが今回は違った。
「自分は変わった」とはっきり思えたのだ。
過去への感謝。
未来への歩み。
そして守るべきものの存在。
それらを心に刻んで、僕はまた歩みを進めていく。
立山連峰の主稜線を歩く(薬師→剱) / ふみさんの龍王岳(富山県)・別山(富山県)・立山(雄山)の活動データ | YAMAP / ヤマップ

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