立山に登るとは、ただ山に登ることではない。そこには、古くから語り継がれてきた深い信仰と、死生観が根づいている。僕はその話を知ったとき、「この山は人生の節目に登るべき山だ」と、心から思った。
浄土と地獄、その両方がある山
立山信仰の最大の特徴は、極楽浄土と地獄の両方をこの世で体験できる山だということだ。山中には硫黄の匂いと噴気を上げる地獄谷があり、ここは「地獄の入口」とされてきた。一方で、雄山山頂は「阿弥陀如来が坐す極楽浄土」とされ、登拝者は地獄を経て浄土に至る、魂の旅をこの山で疑似体験してきた。
この対比は立山曼荼羅にも描かれ、「この世におけるあの世の縮図」として多くの人々の信仰を集めた。
雄山の神、伊弉諾尊と浄めの山
雄山山頂に鎮座するのは、雄山神社奥宮。そこに祀られるのは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。日本神話において、最初に国を生み、死者の国・黄泉の国に足を踏み入れた後、自ら禊(みそぎ)を行った神だ。
その神が祀られているということは、雄山が「浄化と再生の場所」であることを意味している。地獄を越え、禊を経て、魂が再びこの世に戻る――それが、立山という山に込められた信仰の姿である。
女性禁制と救済の儀式
立山には、かつて女人禁制の時代があった。だが女性たちのために「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」という儀式が行われた。これは閻魔堂から布橋を渡り、姥堂(うばどう)に至り、もう一度布橋を渡って戻るというもので、生前の罪や穢れを浄化し、死後の極楽往生を願う「再生の儀式」だった。
立山は、男も女も、死者も生者も、すべての魂が救済される山だったのだ。
雄山で祈るということ
では、雄山で何を拝むのか。 願いごとを並べるよりも、ここまで生きて歩いてきたことの報告。そして、また一歩踏み出すための心の再起動。
伊弉諾尊が禊をして新たな命を生んだように、僕たちもまた、ここで一度立ち止まり、自分を洗い直すことができる。阿弥陀如来が極楽へ導いてくれるように、誰かのために祈る心もまた、この山にふさわしい。
祈りの終わりに、再び歩き出す
僕はこの話を知って、強く思った。
人生に迷ったとき、何かを終えたいとき、そして新たな一歩を踏み出すとき。そんな節目には、きっと僕は立山に向かうだろう。
地獄谷を越え、静かに空へ伸びる稜線を歩き、雄山の頂に立って、自分自身と対話するために。
立山は、ただの山ではない。命を見つめ直すための山であり、再び歩き出す自分を見出すための、魂のリスタート地点なのだ。

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