白山の物語を語る前に、少しだけ『古事記』に登場する神々について触れておきたい。
なぜなら、白山に宿る神――白山比咩神(しらやまひめのかみ)の起源が、その神話の中にひっそりと描かれているからだ。
登場するのは、菊理媛命(くくりひめのみこと)という神。
『古事記』では、わずか一度、名前が記されるだけの存在だ。
場面は、イザナギ命が妻イザナミ命を迎えに黄泉の国を訪れた際の口論のさなか。
その二柱のやり取りのあと、くくり姫が何かを語りかけたとだけ記されている。
どんな言葉をかけたのか、記録はされていない。
だがその静かな登場から、争いを“くくる”=調和をもたらす女神として、後の時代に崇敬されていくことになる。
やがて、奈良時代に僧・泰澄によって開かれた霊峰・白山。
加賀・越前・美濃の国境にそびえるこの山は、豊かな雪解け水と多様な生命を育む山として、古くから人々の祈りを集めてきた。
その白山に宿る神として祀られたのが、白山比咩神(しらやまひめのかみ)である。
この神が、いつしか「くくり姫」と同一視されるようになった。
明確な神話や由来は記録に残っていない。
けれど、山がたたえるもの――水、命、静けさ、包容力――それらすべてが、くくり姫の気配と響き合っていたのかもしれない。
白山は、かつて多くの山が女人禁制だった時代にあって、女性にも開かれていた山である。
女性修験者も存在し、信仰の道は老若男女を問わず踏みしめられてきた。
その優しさと寛容さは、調和を司る女神の性質と通じ合う。
現代、登山道の一つである観光新道や室堂平には、暖かくなると百花繚乱の高山植物が咲き誇る。
ハクサンフウロ、ハクサンコザクラ、ハクサンチドリ……
“白山”の名を冠するこれらの花々は、まるで女神からの贈り物のように登山者の目を楽しませる。
道中、花の前で足を止め、静かに笑顔を浮かべる女性登山者の姿をよく見かける。
その穏やかな光景は、どこか白山比咩神――くくり姫の存在と重なる。
美しさを喜ぶ心と、命を敬う心が交わるとき、白山はただの山ではなく“祈りの場所”になる。
もし、白山の山頂で手を合わせるなら、何を願うだろう。
願いごとをするのもいい。
けれど、くくり姫のような神に対しては、きっとこういう祈りも似合う。
「いま、自分の中にある迷いが、静まりますように」
「この命が、誰かとまたつながっていきますように」
「ここまで来られたことに、ありがとう」
祈りとは、お願いよりも、感謝や報告、心の整理に近い行為なのかもしれない。
追記:なぜ白山の神が「くくり姫」なのか
『古事記』に一度だけ登場する、調和の女神・菊理媛命。
その名は「括る=まとめる」に由来し、イザナギとイザナミの争いを静かに“くくった”神として記される。
その静かなる存在感が、やがて「白山比咩神」と重ねられ、白山の女神として信仰されるようになった。
なぜ白山だったのか。
それは、この山が命を育む水の山であり、調和と包容の風景をたたえた山だったから。
男性的な荒々しさではなく、柔らかく、静かに、すべてを受け入れる力を持つ山。
そんな山に、人々は「くくり姫」のような存在を見たのだろう。
白山という山自体が、くくり姫の姿だったのかもしれない。

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