山が僕を変えた日

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剱岳、夜明け前の出会い(2025年8月31日)

外はまだ暗かった。
剣山荘の玄関の灯りが、床をかすかに照らしていた。
その薄明かりの中で、ケンさんは静かにザックを整えていた。前夜、同じテーブルで食事をした四人のうちのひとり。あのとき「剱岳は初めてで、少し不安です」と笑っていた人だ。

僕は支度をしながら、その背中を見ていた。
これまでなら、何も言わずに出発していただろう。
でも、その時の僕は違った。
「もしよかったら、一緒に行きますか?」
自分でも意外な言葉が口をついた。

ケンさんは驚いたようにこちらを見て、
「本当ですか!」と少し弾んだ声を出した。
その顔が、暗がりの中でもはっきり見えた。安心と喜びが混ざった表情だった。胸の奥に静かな熱が灯った。

外に出ると、空は満天の星。稜線には先行する登山者たちのヘッドランプの光が点々と連なっていた。夜の空気は冷たく澄んでいる。歩き出すと、言葉はいらなかった。お互いの呼吸と足音だけが、静かなリズムを刻んだ。

やがて、東の空がゆっくりと明るみを帯びていく。藍から橙へ、そして金色へ。空が変わるたび、自然と立ち止まり、言葉もなくその色を見上げた。
「すごいな」
小さくつぶやくと、ケンさんは笑ってうなずいた。

鎖場に差しかかる。一歩一歩、確かめるように進む。緊張の中に、不思議な安心があった。彼のペースは僕と合っていた。振り返れば、雲の海に立山の稜線が浮かんでいた。

そして山頂。握手を交わした瞬間、喉の奥が熱くなった。薬師の方まで見える。「あそこから歩いてきたんだ」と言葉にした途端、涙がこぼれた。
「当然ですよ」と、ケンさんが笑った。

この登山をきっかけに、僕の中で何かが確かに変わりはじめていた。思えば、あれが“人と歩くことの喜び”を実感した最初の瞬間だったのだと思う。

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北岳、秋の光の中で(2025年10月13日)

再び、ケンさんと山を歩いた。今度は南アルプスの主峰――北岳。

午前三時前、芦安第二駐車場。八割ほど埋まった駐車場の静けさの中で出発時間を待った。相乗りタクシーは前日に予約済み。4時45分に乗り場へ向かい、5時10分発。料金は1,700円。6時過ぎ、広河原をスタートした。

標高が上がり、樹林帯を抜けると、景色がいきなり“色”を持ちはじめた。空気は澄み、風の匂いに秋が混じる。鳳凰、仙丈、甲斐駒――どの山も、赤や橙、黄色が入り混じり、まるで山全体が泡立つように秋のバブルが湧き上がっていた。
「きれいだな」
思わず声が出た。ケンさんが、少し遅れてうなずいた。同じ景色を見て美しさを共感できる嬉しさがあった。

肩ノ小屋に着くと、風が冷たく強かった。富士山が、雲の上に頭をのぞかせている。鍋焼きラーメンを頼み、湯気の向こうに富士を見ながらすすった。熱いスープが体の芯まで染みていく。
「サイコー」
そう言うと、ケンさんが笑った。湯気の向こうで、その笑い声が溶けていくようだった。

気がつけば、13時を回っていた。慌てて下山するも、白根御池小屋に到着したとき、その標識には「広河原 2時間20分」とあった。すでに、14時50分だったので「間に合わないかも」
顔を見合わせ、笑いながらスピードを上げた。落ち葉を踏む音が重なり、一定のリズムを刻む。途中でYAMAPを確認すると、到着予測は16時20分。
「大丈夫だ、歩いても間に合うな」
ふと笑いがこぼれた。焦りが溶け、風の音が戻ってきた。

16時過ぎ、広河原着。発車30分前。ベンチに腰を下ろし、肩で息をしながら空を見上げた。西日が山肌を撫で、あたりの色がゆっくりと薄れていく。その光が、静かに胸の中にも滲んでいった。言葉にするほどでもないけれど、確かにあたたかいものが残った気がした。

居心地という答え

北岳の登山を終え、ふと考えた。なぜ、ケンさんと二度目の登山に行ったのだろう。

登山で出会った人と、別の山へ行くのは、僕にとって簡単ではない。僕は少し気を遣うところがあって、長い時間を誰かと共有すると疲れてしまう。だから山は、ずっとソロが多かった。

それでも今回は、自然に「一緒に行こう」と思えた。
思い返せば、剱のあの日から居心地がよかった。必要なときにだけ声をかけてくれる静かな気づかい。歩くリズムが合い、沈黙が苦にならないこと。僕の中の緊張が、少しずつほどけていったのだと思う。

北岳の山頂で「ずっとここにいたい」と感じたあの気持ちは、目の前の絶景だけに向けたものではなかった。彼と歩いた時間そのものが、そう思わせてくれたのだ。

剱の夜に芽生えた小さな一歩が、北岳の秋でひとつの形になった。
山は変わらない。
でも、僕は少しだけ変わった。
その証拠に――また誰かと山を歩きたいと思っている。

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