「奈良にでも、一泊で観光に行く?」
娘にそう声をかけた。
スマホを触っていた手が止まり、僕の方を見て、少し間を置いてから、
「ん?どこ行くん?」と返ってきた。
「1日目は大台ヶ原。車でかなり上まで行けるし、あとは軽く歩く程度の登山。
2日目は東大寺とか奈良観光して帰る感じで」
娘は口元をゆるめて、「おもしろそう」と笑った。
ああ、やっぱり誘い方なんだよな、と思った。
同じ場所でも、同じことをするにしても、どう話すかでこんなにも反応が違う。
「登山に行こう」ではきっと、首を横に振っただろう。
暑い、しんどい、虫がいる。
高校生にとって登山は、わざわざ休みの日にすることじゃないのかもしれない。
でも「奈良観光」という入り口をつくると、こうして笑顔で返ってくる。
言葉の選び方ひとつで、人は動く。
それを実感するたび、こちらも少しだけ胸の奥が温かくなる。
押すのではなく、引くのでもなく、自然と前に出てもらえるような誘い方。
それができるときは、なんだか相手の中にすっと入れたような気がする。
もちろん、今回の第一の目的は僕にとっては大台ヶ原山だ。
まだ登ったことのない日本百名山。
でもそれを前面に押し出す必要はない。
「奈良観光」という大きな傘の下に、大台ヶ原をそっと入れておけばいい。
去年の夏もそうだった。
乗鞍岳と立山に行ったときも、「星を見に行こう」と誘った。
山小屋から見る星は、家から見るよりずっときれいに見える。
それは本当のことだったし、娘は星が好きだった。
だからそのために、バスで標高を上げて、さらに少し登ろうと言えた。
あのとき、山頂に立った娘は疲れきっていたけれど、
空に手を伸ばすように景色を眺めていた。
「登ってよかった」と自分の中で感じたからこそ、
その横顔は今も僕の記憶に残っている。
今回も、そんな一日になるといい。
5時に出発して、9時に大台ヶ原ビジターセンター着。
軽食とお茶、娘の好きな焼き菓子も持っていこう。
言葉を選びながら計画を伝える時間も、こうして小さな旅の始まりになっていく。
こうして僕はまた、
「どう話すか」で生まれる小さな奇跡を、
胸のなかで静かにかみしめていた。


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